なんでまあこんなにも長い事

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また今日も人生論。
タイトル「いまの私の思うところ。」


なぜ、こんなにもまあ 長い事 
模索っていうか考え事ばかりしているのかったら
「本当の心からの創造」を探す旅に入ってしまったから

今気づいたのですが そりゃあ30さいになったら
19歳20歳そこらのときとはおなじ衝動でモノはつくれなくて当然だよなあ
と 納得したのですね。


20代前半、、
なんともパンク精神全開、おもったことは 言うべきだ!一度きりの人生!!
がモットーにあった、、、ため、今おもうと大変キカナイ、良く言えば元気な、
よく人ともけんかして、
だけどあがったりさがったり、まさに一喜一憂、でもそれがエネルギーとなり
かなしみの出来事のたび皮肉にも作品が仕上がり、忙しいければ忙しいほど
スピード感がまして、寝ずしてなにかをつくりあげるような生き方であった。。。

でもおかげ様でそのときはとってもすてきな友達もできたし、パンクなともだちも沢山できて
音楽にまみれて朝まで酒をあびてそのあがったりさがったりをコントロール(ごまか)して
すすんできたのだろう、、。
このときの友人たちには大変大変感謝している。


20代半ば、、
責任ある仕事もまかせてもらえるようになって、ちょっとだけ先のことを
みはじめた。 このまま 爆音と冷たい酒を身体に流し込む日々とのバランスで
ずっとずっといきてくのだろうかわたしは!!?と、思いはじめ、
そのときものつくり模索第一期がくる。
おもいつくままにつくってきたものもしてきたイベントも、その一瞬一瞬のひかりがあっても
そのさきにつながる、なにかがなくては、、となにもつくれなくなってしまった。
そして森の中へ移住する。

〜〜

そして数年間へて、今、30歳、(あと2週間で31さい!)
のいま、去年のおわりことからタイミングが重なって入った模索期2期。。

見える景色や、聞こえる音もかわったんです
食べるものもかわって、大事につくって毎日がゆっくりになって
情報は必要なものしか入らない
だだもれのような状態は無くなって
そしたら 
みえやすくなった 自分 の中の泥水もわき上がっては
それを見つめ 綺麗にしていくような作業の繰り返し

また、
何か起きては もう泣かなくなった そうか、そういうことか
一喜一憂ではなく ただ捉える そんなことをしはじめている今

またなにかが起きる。
心が捕われそうになる。

いやちがう、 ただ捉える。
それはどんなメッセージが??

そうやって地に足つけてくことを意識して、
低いほうにはすぐ捕われないように自分の芯を意識して
そうしたら、
服作りって、そんな自分にとってどんな位置付けなのか、
再認識が必要になってきた。

そしてそんなふうな今の自分が作っていきたいものって?

どんな風な表現をしていくのだろう???



そう、簡単にはでませんわな、そりゃあ。笑


まだまだ自分の、 ただ捉える の修行は続くだろうし
わく泥水も簡単には消えない 30年間溜めた 間違った思考
 思い込み いらない感情 。

人のことどうのこうの感じてたことを
自分がそうだったからと気づきはじめて考え直すとみるみる思い出す
過去の自分のしてしまったコト。

それは今は悲しくわき上がる。
ごめんね、 ごめんなさい。 
そんな言葉ばかり。

でもそうじゃなく、ありがとう、ありがとう。
そうやって捉えられるように、 だって必要で経験した、自分の現象。

そして振り返れる 今の自分。
そこを見つめ直せる自分。 ありがとう。


いろんな、 今目の前におこる現象が、
わたしの心にうつって またこうやって 思慮深く、
でも本当は 考えるではなく 感じる 
頭ではなく、心で
捉えられるとこ目指して、 まだまだ歩みは続きそうです。

〜〜〜〜〜と一見暗いですけど、笑
ずーっと、ずっと、
生まれてきたからには、、とおもっていたから(小学校のときからなぜ人は生まれて
死ぬのか?が離れなくて眠れなくて良く泣いていた笑。。)
こうやって、
ああ、きたか、と深く深く 悟りへの道を学ぶことは
喜びなのですよ!!



なんだか修行僧のよう、、
いや、修行僧はもっと厳しい道を歩んでいるのでしょうから
そんなふうにはいっては失礼っ
でも
修行とか、 精進、向上、好きなんだね、、きっと自分。。



今日であったことば
内容は中道のことかね
うむ、半年前くらいにも 中道の道いきたい書いたな
そしたら今日もこんなわかりやすい表現にであったなあ


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悟りに至る道
ブッダがガンジス河のほとりを歩いておられた時、ひとりの
修行僧が地に手をついて言いました。
「お釈迦さま、お願いがございます。どうぞ私に安らかな涅槃に至る悟りに至る道
をお説きください」
すると、ブッダはカンジス河を指さしていいました。
「修行僧よ、あそこに一本の木が流れていくの
が見えますか」
「はい、見えます」
「あの流木が、こちらの岸にも、向こうの岸にも流れつかず、
中流で沈むことなく、中州にのり上げることもなく、人や動物によって持ち去られ
ず、渦に巻き込まれず、腐ることなく、
流れ流れていくならば、どこに行きつくでしょうか」
「いつか海に出ます」
「そうです。ガンジス河の流れは海に流れこむようになっているのです。
修行に励む者はあの流木と同じです。
そして、正しい修行の道はこのガンジス河と同じなのです。
修行僧よ、こちらの岸とは私たちの目や耳や鼻や舌などのこと。
向こう岸とはその対象となる色や音や香りや味などのことで、
岸に流れつかずとは、それら感覚にとらわれないということです。
中流に沈まずとは、
欲望や快楽におぼれないことであり、中州にのり上げずとは、
日常の自分に安住しないということです。
人に持ち去られずとは、恩愛の家庭や社会のつながりに
しばられないということ。
人以外のものに持ち去られずとは、
かたよった信仰・思想・正義に固執しないということです。
渦に巻きこまれずとは、道を見失わないということであり
内側から腐らずとは、純潔を守らない見せかけの修行僧に
ならないということです。
修行僧よ、この流木のように何ごとにもとらわれず、
とどまることなく歩んでいきなさい。
そうすれば、やがては大いなる涅槃の大海に入ることができるでしょう。
これが悟りに至る道です」
修行僧は、修行の道とは、仏にすべてをまかせた道であると知って勇気をおこし
必ずやこの道を進もうと心に誓ったのでした。



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by chocolat_laposte | 2014-01-12 01:38 | 感じた事
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